浦柄神社には、会津藩士21名の墓や戊辰戦跡記念碑があります。
戦後、明治政府は同盟軍の遺体を片付けることを禁止したため多数の遺体が山野に朽ち果てました。これを見かねた浦柄の人々は遺体を手厚く葬り、この地に石碑を建立して弔いました。
TEL公ナイ越路・片貝・小千谷東山
新潟県長岡市~小千谷市
浦柄神社には、会津藩士21名の墓や戊辰戦跡記念碑があります。
戦後、明治政府は同盟軍の遺体を片付けることを禁止したため多数の遺体が山野に朽ち果てました。これを見かねた浦柄の人々は遺体を手厚く葬り、この地に石碑を建立して弔いました。
悲劇であれ、惨禍であれ、過誤であ れ、敗北であれ、北越戦争の激戦の事実があることで、長岡あるいは越後の歴史的個性が強く彩り を与えられる。戦闘が無かった土地には歴史的個性は与えられないが、長岡は個性を持って生きて 行く。北越戦争の歴史は、後世の長岡の人々の自己認識の一部となり、すなわち精神的資産となる。
引用元: 『峠』と河井継之助 - 一藩武装独立の錯誤.
皇国に仇なす徳川幕府とそこに加勢する賊軍どもを撃破し、美(うるわ)しの皇国をつくったのだと、そう国史の授業で教えられたのです。
ところが、それとはまったく違う話も悪ガキのときから、私は聞かされて育ったんです。というのは、わが父の生家たる新潟県長岡市の在の寒村に、子供の頃、身体を鍛えるために夏休みには毎年送り込まれました。ここにあった越後長岡藩というのは、ご存じのように、戊辰戦争において猛然と“官軍”に抵抗して、
引用元: 半藤一利『幕末史』|立ち読み|新潮社.
あの戦争を終わらせなくてはならないといって、命懸けで頑張った人は、みんな明治維新のときの賊軍側なんですね。
「半藤一利」さんの田舎は新潟県長岡市で、戊辰戦争の際に賊軍とされた「長岡藩」である。子供のころ、帰省するたびに、田舎の祖母から薩長連合の悪口を耳にタコができるほど聞かされたという。