佐藤垢石 越後の闘牛

馬琴は、自ら古志の国へ旅して二十村郷の闘牛を見物したのではない、と、自ら八犬伝のうちに付記している。これは、随筆北越雪譜の著者南魚沼郡塩沢の里長さとおさ鈴木牧之から庚辰三月二十五日に伝聞した実況で、牧之は村政や筆硯多忙のために、雪譜中へ闘牛記を収めることができなかったから自分が代わって八犬伝中に記したのだ。と、馬琴は断わっている。

日本闘牛は、越後のほかに土佐と能登にあったのであるけれど、いまは亡びてしまって見ることができない。

引用元: 佐藤垢石 越後の闘牛.

『北越雪譜』と 曲亭馬琴VS山東京山|Little Talks(旧タイトル=今日も今日とて―毎日脱線雑学―)

越後縮(えちごちぢみ)の仲買をしていた関係から江戸へ出ることも多く、戯作者(げさくしゃ=作家)・絵師・役者など、当時の文化人たちと交流していました。

そして自身の著書『北越雪譜』を出版したいと夢み、有名人たちに頼みます。最初、山東京伝(さんとうきょうでん)という当代随一の人気作家に頼みますが上手くいかず、その弟子のような立場だった曲亭馬琴(きょくていばきん)にも相談します。

引用元: 『北越雪譜』と 曲亭馬琴VS山東京山|Little Talks(旧タイトル=今日も今日とて―毎日脱線雑学―).