『渋海川さかべっとう』とは、白い蝶が川面に群れて、花吹雪のように見える美しい現象のようです。
2014年のアーカイブ
With a joyous face. いくたびも 雪の深さを 尋ねけり(子規)(10) 高原のテラスで十二ヶ月(粗忽庵日記)/ウェブリブログ
「ここに銭六百あり。死ぬか活きるかの際にいたりて此の銭を何にかせん。六百にて弁当を売りたまへ」
商人の持ち出した法外な値段に、農夫は一も二もなく乗ってしまいまして
引用元: With a joyous face. いくたびも 雪の深さを 尋ねけり(子規)(10) 高原のテラスで十二ヶ月(粗忽庵日記)/ウェブリブログ.
柏崎の峠 ~広田峠・塚山峠~
街道の宿場町である北条、塚野山は幕府の命により、常時13人12頭の人馬を用意する義務があった。重要な街道であった証である。
引用元: 柏崎の峠 ~広田峠・塚山峠~.
越の大橋と「峠」文学碑
長岡市の妙見側には妙見記念館と広場があり、住民に開放されているので知る人も多いが、西詰めの小千谷市高梨の小さな公園に、司馬遼太郎の代表作「峠」文学碑があることを知る人は少ない。
7月30日の小千谷新聞に、文学碑建立の経緯が紹介されていた。
引用元: 越の大橋と「峠」文学碑.
司馬遼太郎氏 著 『峠』(上・中・下)感想 – suponnjisisiの日記
無能、と何度も書いているが、人間として、男子としてはこの無能を尊敬し、カッコいいと思っている矛盾した自分もいる。それはどこか。やはり、その思想と生き方である。
「峠」
継之介は己が信じるままに藩の舵を取り、ほとんど独力でこれら の改革を成し遂げ、長岡藩をして、東北で一目も二目も置かれる存 在にまで育て上げた。とくにその火力は東北最強の会津藩をも遙か に凌ぎ、官軍にとっても侮りがたい軍事力になった。
継之介の政治家として尋常でないところは、この軍事力をもって、 長岡藩の政治的重みを持たせるということに眼目が置かれていたと ころである。
引用元: 「峠」.
『峠』と河井継之助 - 一藩武装独立の錯誤
悲劇であれ、惨禍であれ、過誤であ れ、敗北であれ、北越戦争の激戦の事実があることで、長岡あるいは越後の歴史的個性が強く彩り を与えられる。戦闘が無かった土地には歴史的個性は与えられないが、長岡は個性を持って生きて 行く。北越戦争の歴史は、後世の長岡の人々の自己認識の一部となり、すなわち精神的資産となる。
引用元: 『峠』と河井継之助 - 一藩武装独立の錯誤.
司馬遼太郎「峠」文学碑
司馬文学の「峠」は、「榎峠」のことか、それとも「慈眼寺の会談」を指すのだろうか。
引用元: 司馬遼太郎「峠」文学碑.
越の山風(司馬遼太郎「峠」文学碑) – 無才の古今往来
越の大橋(妙見堰)の西詰(左岸側)に、小さな自然石の文学碑が在る。作家司馬遼太郎氏の「峠」の文学碑です。戊辰の役で、もっとも凄惨な戦闘が繰り広げられた
半藤一利『幕末史』|立ち読み|新潮社
皇国に仇なす徳川幕府とそこに加勢する賊軍どもを撃破し、美(うるわ)しの皇国をつくったのだと、そう国史の授業で教えられたのです。
ところが、それとはまったく違う話も悪ガキのときから、私は聞かされて育ったんです。というのは、わが父の生家たる新潟県長岡市の在の寒村に、子供の頃、身体を鍛えるために夏休みには毎年送り込まれました。ここにあった越後長岡藩というのは、ご存じのように、戊辰戦争において猛然と“官軍”に抵抗して、
引用元: 半藤一利『幕末史』|立ち読み|新潮社.